みぎに つきすすむ 。右翼の経典 右突経( みぎに・右突き)

●右翼民族主義の整合性 一貫性 因果性を揃え右翼を貫く●民族の独立生存を最上位にし全異民族の侵蝕阻止、侵入異民族排斥●帰化侵入を行う日本国籍異民族排斥●国際世界市民主義の左翼・保守 国家主義 人種差別主義 伝統主義 皇室中心主義 皇道主義 国粋主義 平和主義を打倒●親米親朝鮮シナ親白人親黒人等異民族に親しむ 受け入れる左翼を粛清

【 武士は重装弓騎兵。狂い、間違い、勘違いの事例。 】

≪ 在来馬で騎兵否定。 ≫

騎馬隊についても「騎乗のまま戦う事なんてほぼ無い(一応は馬上槍などはあったため出来ない事は無いがかなり高い技量が必要だし、ミス一つで簡単に死ぬ。踏ん張りが効かない馬上で戦う意味もあまり無い)」と言われていて、実は大将クラスが乗って戦場のど真ん中で指揮(これも珍しい事ではある。基本的には後ろにいるか、戦場では降りる)をしていただけで他の兵隊は歩兵だったと言われている。武田軍が強力だったから印象が強く残されたと考えられてる。

馬は何処でも使える訳では無いし。

水野氏の覚書には「敵は乗り破らんとて五十騎、三十騎づつかけ来り柵に乗りかけて為方なく漂ふ所を引きつけ、鉄砲にて五騎、十騎づつ打ち落としければ、案のごとく敵陣あぐみつかれてみえし」とある様に馬上の乗り入れは行われていましたよ。

騎馬隊も怪しい

子供の頃から思ってた疑問

1.小さな馬

大事に葬られている骨からも、鎧武者が乗り右往左往と爆走するには、、、

2.騎馬隊

野球グラウンドや公園広場なんて無い時代、馬が走り回れる様な戦場って、、、

3.馬防柵

作るだろうけど、、、

あえて馬に有利には作らないでしょ?

縄や落とし穴など仕掛けるだろうし

何より2ね

役に立って無かったと思う

戦勝側のプロパガンダフェイクニュース

それともハリウッド映画風のアクション?

江戸時代までの小型馬に騎乗し闘っても、絵にならないか。

そもそも日本の騎馬隊って日露戦争の秋山が最初なのではないですか?

詳しい人教えて下さい。

戦国時代に騎馬隊を編成するのは難しくないですか。鉄砲の三段撃ちもかなり前から否定されていたと思うのですが?

ぶっちゃけ…映画等やTVドラマなどでの馬(サラブレッド等)は

全て嘘ですからね(笑)一般常識を知っている人間ならば当たり前な事実。日本国の馬(家畜)などは農耕馬・小さく背は低く動作はノロいが力強い!馬?ロバに近いはずでしたよね。

「西洋の騎士は馬上で闘う。日本のサムライは闘う時は馬から降りる」

と、ルイス・フロイスは本国へ書き送っています。

ルイス・フロイス日本史より)

また、当時の日本には蹄鉄技術はなく草鞋(馬草鞋)を履かせていましたし、

この記事にもある通り馬格も小さく、

鎧武者を乗せて疾走する事は不可能でした。

NHK歴史への招待より)

さらに、当時の騎馬武者は徒士や小者を従えた「家」単位で、騎馬隊としての集団訓練はしていません。

(騎兵隊は秋山好古がフランス式を導入した明治期からです)

以上より、長篠の戦いは当時の普通の歩兵戦で、

信長の優れた戦略と、兵員数と物量が勝敗を分けたものと思います。

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ポニー程度がうけた

想像したら、笑えた

戦国時代の馬は、ポニーのように小さかったらしい。

鉄砲の国産化が進む一方で、火薬と玉は輸入に頼っていた時代。しかし武田などの東国大名にとっては、物流ルートを織田に押さえられている状況。つまり火薬と玉を大量に保有していた織田軍は、鉄砲火力でも圧倒的だったのは間違いない。記事では結局兵力差がものを言ったのでは?となっているなら、なおさら物量面での優位性を指摘しないのが不思議。

ちなみに武田の騎馬隊もそうだけど、騎馬部隊というのは兵站における輸送手段としての側面が強い。特に内陸の武田氏は軍事行動における道路整備と山間部での輸送部隊に重きを置いていて、それが電撃作戦を可能にしていたのだろう。

記事全体としてはステレオタイプ長篠の合戦を今更ほじくり返している感じ。

戦争は良くない。何故この戦争が起きてしまったか?どうすれば止められたか?って話にはならないんですね。

それが一番不思議です。

騎馬隊は無い 結構前から言われている 北条の方が人数あたりでは馬が多かったらしい

騎馬隊そのものも大仰に描かれ過ぎ。当時の日本固有種の馬はロバみたいな馬だし、人も大半が小柄……そう考えると、なんだか滑稽にさえ思える。

大河ドラマや時代劇では、馬はサラブレッドが優雅に動くが、本当はポニーサイズの馬であり騎馬隊と言っても槍が直ぐに届いてしまいサラブレッドに比べたらスピードも遅く戦力としてそれほどの効果があったと思えないという事。語られている歴史は、勝者の歴史であり、ほとんど勝者の都合の良い様に書き換えられていると言う事!

歴史学者や恐竜、宇宙科学者の仮説に過ぎなく、研究成果としてその仮説を立てるのが仕事であって権威があればそれが有力とされてきただけの話だ。

そして、やっかいなことはそれが正解かを誰も確定できないことだ。

邪馬台国でさえ、いまだに、決着がつかない。

もしかしたら決着はついているけど認めたくない勢力が曖昧にしているのでは?と、うがった見方もできる。

ピラミッドの作り方とかもいまだに仮説の域を出ないしストーンヘンジとかもいまだに謎のままだ。

武田の騎馬隊は、果たしてどのくらいの数かはともかく確かに国内はポニーのような馬ばかりだが元寇できた馬の子孫や輸入商人もいただろうし国内でもそこそこ大きい馬が存在した。

武田家だと木曽馬をしいれやすかったのでは?と。

鉄砲隊を三段にしたというより私なら柵を三重にしてそれぞれに鉄砲隊を配置しますけどね。

大前提が異なる話というと、当時の日本の馬の種は、ロバの様に小柄でのんびりしていて、現代の競走馬の様に力強く駆け抜けられなかったという説もありますもんね。

圧倒的な兵力と物量で重機関銃や戦車まで投入した米軍(織田徳川)に対し少ない兵力と銃剣を付けた歩兵銃だけで突撃した日本兵(武田)みたいなものか? 武田が勝てるわけがない。

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かなり前にTVで検証してましたね

武田騎馬軍、今の馬じゃなく

昔の馬。小さめの馬で完全装備の

鎧武者が乗っていた

重過ぎて早く走る事が不可能

織田の鉄砲の三段撃ち

弾込めに時間がかかり過ぎで

ドラマの様な連続発射にはならない

のそりのそりの騎馬軍対あまり連続発射が出来ない鉄砲の戦い

結局は音に怯えた馬が言う事を聞かず

武田騎馬軍はまともに戦えず敗走

と、当時のTVでやってました

モンゴル騎兵じゃないからな、馬は乗り物であってパーツではない

織田軍のような職業軍人軍団なら練度の高い騎兵も作れたかもしれないけどさ

他の大名は主力が農民なのに馬のってさらに馬上で戦えってのは無理、そもそも馬の方が農民より価値高いしな

でも歴史なんてロマンでいいんだよ、それっぽきゃいいの。

昔、武田騎馬隊の主たる活躍は物資の搬送にあったと読んで、「そりゃ確かにポニーに毛が生えた程度のサイズだもの。」と納得したことを思い出しました。これも何かで読んだことですが、家康や正宗がアンダー160cmだったことを考えると、「体感的にはポニーと現在の馬との中間程度なので、やや歩兵を見下ろせたな。」とも思ったことでした。

日本では馬の去勢が定着せずシベリア出兵でも他国の軍馬に比べ集団行動が出来ずに問題となった。

つまり、戦国時代でも去勢していない馬が暴れ集団では運用できるわけがないからテレビで描かれるようか騎馬軍団などは存在しない。

また、乗馬できるのは将校クラスの侍で奉公人を連れて戦場に行くから騎馬隊を組織できない。

馬に乗れるというのはステータスで一定以上の身分があるということ。そんなものを集めて一斉突撃させる指揮官がいたら相当な馬鹿者だろう。考えられるとすれば馬に乗った将を鉄砲で狙い打ちしたのではないだろうか。兵の死者より領地経営を担う有能武将が多数死んだことの方が痛手だったのでは。

20年前、木曽馬を初めてみた時の衝撃 当時の人がかなり小柄なのがよくわかった ポニーより少し大きいちんちくりん

夢をぶち壊すようで申し訳ないけど馬に乗って槍振り回すなんて人間には無理だよ。全然力入らないんだから。

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そもそも甲冑を着たら体が動かない、歩くより馬に乗ったほうが楽なんだから、甲冑武者ってのも状況次第では有りうると思う

それ否定すると古今東西すべての資料を否定する事になるけど?

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もういいよ。この手の記事。結局ホントの事は分からないんだろ。日本の馬ポニーだったとかもホント面倒くさい(笑)

馬についてはかなり前になるけど木曾駒位の大きさの和種の馬で甲冑と同じ程の20キロの装備を着けた人が乗って走らせた実験があって、その馬はこの記事に書いてある様な鈍足では無くて時速50キロ程の速さで走ってましたよ

騎馬に関しては現代で同じような重さの装備をした上、木曽馬を用いた動画がありますが、時速40キロは出せてます。おそらく武田軍も木曽馬あたりを多用していたでしょう。なので、この記事の信用ならない点がまず一つ。他も結局は文献ごとの信憑性に対して異義があるという事ですが、その裏付けがないので信憑性がありませんよね。

当時の馬がポニー程度の大きさしかないっていうのも有名なウソですよね。

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この馬が小さいというのよく聞くけど、元寇の画を観ても普通に乗馬に堪える大きさなんだよね。他の画も馬は大きい。

わざわざ馬を大きく描く必要はないわけだから、そんなポニー程度という大きさとは思えないんだよなぁ。

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小さいって言ってもメロディーレーン位の大きさはあるしな(レーンちゃんがギリギリポニーと呼ばれるか呼ばれないかの大きさ)。

乗ってる人間も小さいから相対的に今の馬とそう変わらん感じになる、ということでは?

大河ドラマや数々の時代劇で、騎馬隊がサラブレッドに騎乗した武士というような描かれ方がそもそも間違っている。当時日本にはサラブレッドなんて存在しないし、固有日本種の馬であったなら、「突進」というような動きは絶対出来なかったはずだ。 

馬の描き方を再検証して数々の過去の伝説的戦いをもう一度考えて見る必要があるだろう。

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騎馬隊の突撃戦法は古くからありましたよ。

有名なのは源義経鵯越の逆落とし。

ただ、馬自体が貴重品だったこともあって関東以外では定着に差があった。

武田も馬は輸送に使うことを重視してたけど、それでもオートバイくらいの速度はあるので、当時としては驚異的なスピードでしょう。

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水野左近覚書「敵は乗り破らんとて五十騎、三十騎づつかけ来り柵に乗りかけて…」

反町大膳訴状(長野氏家臣)「敵の騎馬8騎に襲われたがその内2騎を突き落とし高名を仕った」

藤堂高虎「敵陣に馬を乗り入れる時は…」

他にも当時の武士が書いた数数多の記録がありますよ。

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馬で突進して敵を蹴散らす戦法自体は日本にも普通にあります

ただリスクも大きいので完全に優位であることを確立してからでないと行わないのが普通です

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サラブレッドは逆に軍馬には向いておらず、重い鎧をきた兵士なんか載せて走るのは厳しいし、突撃したら足が折れてしまう。

モンゴル騎兵も日本の在来種と同じ系統で小型馬だから小型で頑丈だから小型だから戦闘に向いてない訳ではない。数は揃えられないとは思うけど。

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全く同感。そもそも大河ドラマなどが事実と鵜呑みにするのが間違いで、当時の宣教師の手紙などでも、侍たちは、馬を降りて、主に槍で戦い。馬は移動手段にすぎない、というような記述があり、馬に乗って戦うのは後世の創作である。騎兵隊は、日露戦争で導入された戦い方で、馬に乗りながら、当時でも、鉄砲を撃つのはかなり難しい話。小銃ができないと困難。西部劇と混同している。

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ヨーロッパのような騎兵隊というのは存在しなかったはず

基本は武将の移動用

騎乗では邪魔になるから

槍や刀を持って、馬についていく係がいたくらい

「轡持ち」もいたわけで

騎兵ならランスチャージが最も威力のある突撃だが

日本でそのような戦術はとられていない

そもそも信長以前では基本的に名乗りあっての一騎打ちがスタンダードじゃなかったっけ?

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文中にも「ポニーサイズ」って書かれているけども、「ポニー」って「肩の上までの高さが140cm以下」ってころで、皆さん思っている以上にでかい。

当時の日本人の身長も140-150、160あれば大男だから相対的に十分でかい。

さらに、足も頑丈で太い木曽馬だからやっぱりごつい。

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この手の記事でいうポニー=小さいザコ馬的な扱いは誰が始めたんだろう。在来種はサラブレッドなんて話にならないレベルで足が頑強で、きちんと調教できれば走れるよ

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モンゴル帝国の騎馬軍団もポニー並みの大きさだよ

それでもチンギスハーンはヨーロッパまで攻め込んだ

サラブレッドの方が戦に向いていない、すぐ骨折るし持久力がない

日本の馬が小さいとか言ってる奴は世界の歴史を全く知らないやつ

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騎乗して戦ってる絵は全部妄想派の人たちは大変ですね

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日本馬どころか大型犬のチャージ喰らったって人は戦闘不能になると言うのに

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 以上、現在削除されたとある書き込み。

 いまだに歴史関連ネタでは武士が乗る馬は小型で、ろくに人が乗って走れないと言い張るのがいる。

 これは正しい考え方や、陥りやすい間違い方の事例になると思うので書く。高知能化に貢献できればと思う。

≪ 事実を揃える。 ≫

 事実1 

 平安以後の日本の鎧、刀は騎兵として戦う為に改良された。室町末期からの反りの浅い打刀とは違い、反りの深い太刀は馬上で斬撃を行う為に反りができ、長くなった。大鎧は騎射戦の為に改良された。流鏑馬、笠懸、犬追物との騎射鍛錬法を行っていた記録があり、流鏑馬のみ神事で現在でも行われる。

 平安末期から室町中期まで、西日本の武士より、東日本の武士が軍事的に優位に立つ。それは軍馬の違い。騎兵、騎馬隊の違いによるともされる。東日本の方が軍馬向きの馬が多かった影響。西日本の中でも異質の薩摩は古代から豚を飼い、食べ、稲作に向かない畑作地域で、馬産に向いていたというので、軍馬が多かったともいう。

 この事実1が最も重要。

 事実2

 平安~室町までの絵には重たい大鎧を着て、騎射している絵が多くある。モンゴル帝国との対決では、数人の騎兵が塊り、騎射で攻撃している絵があり、敵の記録では騎馬隊があると記録がある。室町末期以前の武士は基本重装弓騎兵。重たい鎧を着て、馬に乗り、走り、弓を射るとの火縄銃使用以前の最高の戦闘術をできるのが当たり前の武士。古くは古墳時代頃から騎射を行っていた記録がある。

 絵では顔がでかく、首と胴体が太く、脚が短く、体高が低い馬には描かれていない。現在の木曽馬、対馬馬、北海道和種とは全く違う体型に描かれている。フリージアン、バルブ種に体形が似ている。顔の大きさは大きくもなく小さくもなく、首や胴体は細くもなく太くもなく、脚はやや太いが、短くもなく長くもない軍馬型の体形。

 事実3

 平安初期の関東を荒らした馬賊に等しい騎馬盗賊。騎馬隊の敏捷性を使った平将門。西日本の武士化した平家を容易く粉砕した騎兵を使うのがうまかった源義経源平合戦は強力な弓騎兵を揃える東日本対水軍を揃える西日本の戦いともいえる。宮城から600800キロをたったの22日で移動し、滋賀で足利尊氏を撃破した北畠顕家。家を継ぐ長男以外で揃えた1000騎の騎馬隊を揃えていた武田家。信長襲撃の為、本能寺に向かった明智の騎馬隊。

 事実4

 極悪狂気の白人が迫る明治。専守防衛型の徳川幕府を覆し、白人と生存闘争、縄張り争いに突入、海外遠征型の軍備に変更。数百年かけ、当時も軍馬を改良する白人共の騎兵に対抗する為に、強力な騎兵を揃える必要から欧州罵を採用。それに随伴し、在来馬を排除、絶滅に追い込む。明治は軍馬型の南部馬を使う場合もあった。やがて、昭和初期になると軍馬は完全に外馬、欧州罵に覆る。 

 事実5

 現在生き残っている在来馬の体形は顔がでかく、首と胴体が太く、脚が短い体形。

 体高は平均130cm前後。北海道和種が135cm前後。南西諸島の馬は125cm前後。

 軍馬体形ではない、農耕馬、駄馬型体形。

 事実6

 火縄銃採用後の室町末期から刀が変化した。反りが深く、長く、刃を下向きに佩く馬上で斬撃する太刀から、少し短くし、反りを浅くし、刃を上に差す打刀に変化。騎射が廃れ始め、重装弓騎兵の面が弱くなる、または消えた。騎兵は槍騎兵が主流と変化する。

 事実7

  現在、軍馬どころか農耕馬、駄馬すら必要ない。在来馬の体形は揃って駄馬型で駄馬の子孫が人の少ない地域で生き残り、現在、在来馬は軍馬、農耕馬、駄馬ですらない。手間、暇、時間がかかる軍馬育成をした結果の現在の在来馬ではなく、軍馬用の育成をしていない結果の在来馬。

 事実8

 江戸時代、古墳時代以来最も人の身長が低くなり、小型化した。それに合わせ、馬も江戸時代以前よりも小型化した説がある。

 これは平安~室町までの軍馬と江戸時代以後の軍馬の体高に違いが出る。平安~室町まで大・中。江戸時代以後小。

 以上の事実を踏まえ、繋げ、答えを導き出す。

 ≪ 騎兵は武士。武士は騎兵。 ≫

 平安時代に発生した武士は馬に乗り、世界最大の大弓を射る対弓矢用の重たい鎧を着て戦う重装弓騎兵。弓の他に馬上で斬撃する為に形が変化した太刀も扱う。武士発生時の平安時代の絵でも馬に乗り、走り、弓を射るのが多い。武士と言えば、弓馬の道と言うくらい騎射が重視された。兵力を示す場合も何人ではなく何騎とするのが頻出する。この言葉は足軽、歩兵を入れず、騎兵の数を示す。

 京都人だが、子供の頃に馬産地東北の藤原家で育った源義経。良質の軍馬がうじゃうじゃいる東北で騎兵、騎馬隊の鍛錬を積み、源平合戦では騎馬隊の力を最大限に出し、平家を粉砕した。平家が弱すぎる様にも感じるが、義経が強すぎたともいえる。軍事に関してはずば抜けて知能が高かった義経だからこそ、あっけなく、平家を打倒できた。義経とともに騎馬隊で戦った武士。義経の指導の下に騎馬隊で攻撃した武士は、軍馬に乗り、騎兵としての鍛錬を積んだからこそ、騎馬隊の力を最大限に発揮できた。大鎧を着た人を乗せてろくに走らせられない軍馬に向かない馬。ろくに騎兵の鍛錬を積んでいない武士。これでは義経について行けず、義経は平家を粉砕できない。軍馬向きの馬、騎兵、騎馬隊の鍛錬を積んだ武士がいた証。

 この武士の始まりからを踏まえれば、少なくても江戸時代以前の在来馬が軍馬に向かない、駄馬、農耕馬同然だとは言い張るのは鹿を馬と言い張るしか馬。江戸時代以後はまた少し変化するので、分からないが、江戸時代は騎兵、騎馬隊が全く活躍していない時代でもある。そもそも合戦が頻発していない。在来馬で騎兵否定する連中は、平安、鎌倉、室町の戦闘を踏まえているので、この時代の武士の馬、軍馬を踏まえるべきで、現在生き残っている農耕馬と見なせる体形をした木曽馬等を踏まえるべきではない。平安~室町の馬の絵と全く体形が違う。

 ≪ 体形による影響。 ≫

 在来馬が小さい、走っても遅い、乗って走れない、騎馬隊はいない等と言うのがいる。現在、生き残っている木曽馬、対馬馬等、在来馬の体形が軍馬とは思えない程酷い体形をしている。体高が低く、顔がでかく、首、胴体が太く、脚が短い。人で言うとずんぐり。この体形は速く走れない。敏捷性、俊敏性が低くなる。しかし、単純な筋力、重たい物を持つ、引く、押すは必ずしも低くならない。軍馬に向かないだけで、農耕馬、駄馬としては何も問題ない。人でもずんぐりの人は筋力が強く、重たいもを持ったり、押したり、引く力は強かったりする。しかし、速度型瞬発力、敏捷性、俊敏性は低い。現在の在来馬の体形を見れば、走るのが遅い、軍馬に不適は正しいが、武士が乗っていた馬は軍馬として酷い体形をしていたとは限らない。注目すべきはずんぐり体型。形の影響を踏まえれば、軍馬ではなく、農耕馬、駄馬だと気付ける。

 明治に工業化が始まるが、ほぼ江戸時代と同じで、人口のほとんど、9割程が農民。明治に極悪狂気の白豚の脅威に対抗する為に、執念を持ち軍馬を改良してきた欧州馬を採用し、軍が在来馬を絶滅に追い込んだ。特に関東、関西等の大都市から離れた一部の地域で農耕馬、駄馬は農民が使い、残せるが、農耕、運搬に向かない軍馬型在来馬は残せなかった。それで、絶滅寸前まで減少しつつも、木曽馬、対馬馬等のずんぐりした農耕馬型が生き残ったのだろう。現在生きている農耕馬型の在来馬に武士は乗っていない可能性が考えられる。現在と過去が違う可能性がある。現在を基準に過去を決めるのは間違いの可能性がある。

 資料が少なすぎるが、日本最高の在来馬、南部馬がいたし、すべての武士ではないが、南部馬に乗っていた武士もいた。義経の騎兵は全員、南部馬だったのかもしれないし、顕家の軍、数万騎が全員南部馬だったのかもしれない。武田の騎馬隊は南部馬かは不明だが、軍馬型木曽馬だったのかもしれない。または、軍馬型に改良した知られていない馬がいたのかもしれない。場所として、木曽馬が近いとも考えられる。

 軍馬に向かない体形をした在来馬の生き残りの体高は130cm前後で顔がでかく、首と胴が太く、脚が短い。見事に揃う。体高がこれより低いもの一部いる。南部馬の血筋の北海道和種がいる。南部馬だが、駄馬、農耕馬型体形となり、体高は木曽馬よりも5cm高い135cm前後。北海道の産物を運ぶ駄馬として使われた駄馬型の系統と考えられる。最高級、最上級の貴重な軍馬型南部馬を駄馬に使うのはもったいないから、駄馬型南部馬だろう。軍馬型南部馬は体高150cm前後で駄馬型よりも顔が小さく、首と胴体が細く、脚が長い。外種だとフリージアン、バルブに似ている。フリージアンは少しでかすぎるが、バルブ種は体形、体格が似ているか。

 これを踏まえると、木曽馬、対馬馬等の軍馬も軍馬体型だった可能性がある。日本最高の軍馬南部馬が体高150cm前後だったから、さすがに体高150cmはないとは思われるが、木曽馬等の軍馬型も駄馬型130cmよりも高く、140cm前後あったのではないか。だが、これだと、軍馬型南部馬の体格、体形、大きさが際立たないので、体高140cm前後の軍馬型体形の木曽馬、対馬馬等はあり得ないかもしれない。軍馬型体形は同じでも、体高20cmの差は大きく、一目で分かり、際立つ。しかし10cmだと際立たない。軍馬型木曾馬等でも体高は130cm前後とも考えられる。または5cmだけ高い135cm前後かもしれない。

 駄馬型南部馬、北海道和種が体高135cm前後だとすると、軍馬型南部馬と15cmの差がある。軍馬型と駄馬型の違いで15cmの違いがありえる。だが、環境、人、時代の影響で変動するはず。木曽馬の馬産では体高が高いのを選ばなかった、または体高が高いのが出にくかったから、軍馬型でも140cm135cmが平均になった場合もあるはず。南部馬は古代から大き目が多かったから大型化しやすかったとも考えられ、木曽馬、対馬馬にも15cmの差を当て嵌められない。

 軍馬の体高と軍馬としての能力、人を乗せて、長時間走る、短距離を早く走る能力に正の相関性があるらしい。それで、軍馬としては体高が高い方が良い、150cm前後あった方が良い、体高が低い馬は軍馬に向かない、騎兵不可能とされてしまう。在来馬は蹄が硬いという。これと同じで、体高の割には人を乗せて長く走り、短距離を早く走る能力があった可能性もある。木曽馬体高135cmフリージアン体高150cm、アラブ馬やバルブ種体高150cmと同じ走る力があれば、木曽馬体高135cmでもいいのではないか。大型化に執着する必要はない。体高が低ければ、餌代が少し浮いて良いではないか。在来馬の軍馬の能力が不明なのでなんとも言えない。

 体高と軍馬としての能力に相関性がない、影響を受けないならば、体高130cm台でも軍事的に問題ない。見た目の問題はある。130cm台だと小さい、みすぼらしい。150cmあると迫力があり、立派。軍馬としての能力が同じでも、見た目、好印象を与えるならば、高い方が良い。

  ≪ 江戸時代に馬が小型化した説。 ≫

 江戸時代は食料が少ない古代よりも身長が低くなり、幕末時、男は157cmとなる。その前、江戸中期はさらに低身長化し、女は130cm台だったともいう。男は分からないが10cm高い140cmではないか。江戸時代になると白米を食べる様になり、白米と漬物が最高!の極端な低蛋白食になり、正座が頻繁に行われるようになった。それで身長が低くなり、脚が短くなる。江戸時代チビになったので、それに合わせ、体高を低く改良した可能性もある。157cmだと体高130cm前後がちょうどいい高さ。

 改良した大型の軍馬、重種が多いヨーロッパ白人も同時期は平均170cm超えず、160cm前後、150cm台で似たような身長。しかし、ヨーロッパ白人もチビ、貧弱だったが、馬を小型化せず、大型化した。乾燥し、冷涼で慢性的に人の食料が不足していた当時のヨーロッパで餌の量が増える大型化をし、小型化に向かわなかった。モンゴル、トルコ、アラブの騎兵の脅威を踏まえ、それよりも大きめの力が強い軍馬を求めたのかと考えてしまうが、私にはわからない。大型化と言っても、170cmではない。うろ覚えだが、明治の独仏の軍馬の体高は150cm前後だったように覚えている。現在の欧州軍馬は当時の軍馬より高く、同じ体高ではなく、少し小さいのではないか。

 庶民は騎乗が許されない。乗る必要がないのだから、体高の高さは関係ない、と言うのがいるかもしれない。人が乗るのではなく、物を載せる為に体高が高すぎると乗せる負担が掛かるから、人の身長が低くなれば、それに合わせ、馬の体高も低い方が良くなる。騎馬用、駄馬用に関係なく、人の平均身長で扱いやすい馬の平均体高も変化する可能性がある。

 現在の在来馬の中でも異質な体形の馬がいる。顔が木曽馬程でかくなく、首と胴が太くなく、脚が短くなく、現在生存している在来馬の中ではやや軍馬型体形の御崎馬がいる。しかし、体高は130cm前後。体形を踏まえると、どちらかと言うと軍馬型で、農耕馬、駄馬ではない。体高はずんぐり木曽馬とほぼ同じ。体高を重視し、軍馬型体形でも、体高が低いから、軍馬として使わず、農村で庶民に使われたのが生き残ったのか。明治から軍馬は欧州罵に入れ替わってしまったから、農耕馬型の生き残りだろうとは思うが、分からない。江戸時代以前の御崎馬の体高、体形の記録があればいいのだが、私には見つけられない。

 古代から在来馬の中で大きい体高150cm前後の糠部の馬、南部馬が素晴らしいとされてきたのだから、軍馬として体高130cm前後では高さが足りない。体形はともかく、体高が低く、軍馬に向かない庶民の馬の生き残りだとした場合、軍馬型御崎馬は体高が現在よりも10cm高い140cm前後だった可能性もあるが、不明。軍馬型の体形だけに注目すると、御崎馬は江戸時代に軍馬を体高130cmに小型化した痕跡の可能性もある。江戸時代以前の御崎馬の体高が分からない以上、答えを導き出せない。御崎馬は他の在来馬と体高が同じだが、体形が軍馬型で異質。それで、あまり参考にならないかもしれない。

 現在の駄馬型南部馬、木曽馬、対馬馬、御崎馬の体形、体高を踏まえる。南部馬、木曽馬、対馬馬は体型、体高の二つを踏まえ、軍馬と駄馬に分けた。顔がでかい、首と胴体が太い、脚が短い、体高が低いの一つでも当て嵌まった場合、軍馬不適とし、駄馬決定にした。しかし、御崎馬は体形は無視し、基準の体高を設定し、体形が軍馬型でも、体高が基準以下の場合、軍馬不採用にし、庶民が使うようになったとも考えられる。その体高だが、135cm以下は軍馬不採用にしたのではないか。これが現在の木曽馬等の体形が酷くなり、体高130cm前後で低いが、御崎馬の体形が良くなった原因ではないか。

≪ 軍馬として適正な体高。 ≫

 現在、馬と言えば軍馬に全く役に立たないサラブレッドに頭が蝕まれているのが多い。私は軍馬に向かない競走馬サラブレッドを嫌うので、サラブレッドに蝕まれた愚奔人とは見方が違った。ブリ滓は精神的、肉体的に脆く、弱く、過酷な戦場では役に立たないサラブレドを軍馬として使わなかった。現在でも北海道から千葉、東京にサラブレッドを運ぶのは大変だという。このサラブレッドを基準にし、小さいだの遅いだのと言うのがいる。サラブレッドは競走馬であり、軍馬ではない。競走馬としての合理性を追求した結果がサラブレットと考えられる。軍馬は軍馬で、軍馬としての体高、大きさも軍事的合理性に由り、過酷な戦場に耐えられるかで決定する。速く走れても心身ともに軟弱では使えない。過酷な戦場に心身ともに耐えられるならば、少しぐらい走るのが遅くても良いのではないか。軍馬と競走馬では違いが出る。

 気候が厳しく、乾燥した地域のアラブ馬は体高150cm前後、140cm台で、ヨーロッパの金がある騎兵が好んで乗った馬でもある。強力な騎馬隊フサリアはアラブ馬を好んだという。尚武、勇敢なトルコ騎兵の馬で、人を乗せて長距離を走り続けた記録がある中央アジアのアハルテケは150cm前後。大き目の160cm程のもいる。明治時代、独仏の軍馬の平均体高も確か150cm前後だったが、うろ覚えなので間違っているかもしれない。北アフリカ、スペインのバルブ種は150cm前後。チビ、貧弱、ガリ、鶏ガラ、小男、軽量級が乗り、速く走れるサラブレッドは体高160170cmだが、これは軍馬として平均ではない。競走馬としての平均。軍馬に不適で、近代に生まれ、競走馬用の異質なサラブレッドを基準にするのは間違い。

 体高が高いサラブレッドを基準にするのがいるが、軍馬としては体高150cm前後が適切なのではないか。体高が高すぎると、乗り辛い。165180cmに合う150cm前後。180だと少し低いか。体高が余計に、無駄に、意味なく高いと落馬した時、重傷を負う。私はここに注目。これが軍馬としての体高決定の因果の一つではないか。重たい鎧を着て、落馬したら、最悪死ぬ。アスファルトの上に立ち、ガリが倒れても怪我しないが、重量級が倒れると、自分の体重で衝撃が強くなり、場合によっては重傷を負うのと同じ。次に体高が高いと、餌、塩、水を大量に消費する。馬の体格の違いによる餌の量は分からないが、単純に考えれば、でかければ、餌の量も増え、金がかかる。過酷な戦場で怪我や殺される危険がある軍馬は1頭で済まず、替え馬として、23頭所持しておいた方が良い。2、3頭所有した場合、無駄に意味なくでかすぎると、餌代がかかり過ぎてしまう。そして、戦場では、馬の餌、水が十分に確保できるとは限らない。でかすぎず、小さすぎず、騎兵として使える適正な大きさにする必要がある。

 小さすぎると、軍馬に向かないが、でかすぎても、乗り辛く、落馬すると危険で、過酷な戦場用の軍馬には不適。体高145155cmが軍馬として適切な体高なのではないか。高くても160cm。この大きさで十分、軍馬として使えるのはアラブ馬、アハルテケ、バルブ種を踏まえればわかる。右翼の癖に異民族の馬を持ち出すのか!と言わるかもしれないが、在来馬の軍馬型が絶滅したので、これらを踏まえるしかない。

 ちょっとずれるが人の兵士の場合、170180cmがちょうどいいと思う。これは私が思っているだけだが、170cm80キロ、180cm90キロ。身長が高すぎると頭の位置が高くなるし、幅も広くなるから良い的。刃物でも面積が増えるから刺しやすく、斬りやすい。銃、刀剣を使わず、素手の場合、190cmあった方が良いとは思う。バレーボールに必要な2m越えは銃、刀剣を使った殺し合いには不利。

 軍馬型南部馬はこの大きさ150cm前後、140cm台。木曽馬、対馬馬の軍馬型の大きさが明確ではないが、南部馬より10cm低い135145cmだとした場合、やや小さいとなる程度で、やや劣る程度で、全く軍馬として使えないわけではないだろう。ヨーロッパの馬と違い、在来馬はやや小さめでも走る能力、軍馬としての能力があまり低くならない種の可能性もある。木曽馬、対馬馬の体高135cm前後とヨーロッパの馬の体高145cm前後、150cm前後の軍馬として同じ能力が備わるならば、ヨーロッパと違い、大型化に執着する必要はない。体高、体格が同じだと、在来馬の軍馬の方が優れるならば、という事。

 今、皇居の騎馬隊やヨーロッパの王家のパレード等に使われる馬は体高が高い。170cm超えているか。これを基準に勘違いするのが出てくるだろうと思うので、出しておく。それは過酷な戦場で使わず、馬上で戦闘せず、落馬する危険が低く、見せる為だから、体高が高く、乗り辛く、餌を大量に食べようと、落馬の危険を重視しなくて良いのだろう。軍馬として使わないから見た目重視だからそれが良い。純粋な軍馬ではない。

≪ 軍馬用の育成をしていない現在の在来馬。 ≫

 現在軍馬は必要とされていない。軍馬どころか、農耕馬、駄馬すら既に必要とされていない。欧州罵でさえ、競走馬のサラブレッドが主となり、軍馬はほぼいない。現在、ずんぐりの酷い体形をした在来馬の多くを子馬の頃から軍馬用に育成しているのか不明。戦後、極端な非軍事化に束縛されたし、軍馬が必要ない現実がある以上、何といっても手間がかかる軍馬育成はしていないだろう。現在の在来馬は役畜ではなく、ほぼペット。または観光客を乗せて歩く観光用。

 在来馬を使うスポーツ流鏑馬では、人を乗せて走っているが、遅すぎると言うほど、遅くない。しかし、軍馬ではない競走馬サラブレッドを持ち出し、遅いというのが出てくるだろうが、軍馬として役に立たないサラブレッドは関係ない。最近成立した競走馬サラブレットより遅いのは当たり前。アラブ馬、アハルテケ、バルブ、ブリカスの軍馬(名前を忘れた)より遅いのは当たり前だろう。

 競走馬のサラブレッドだから、先天的に速く走れるわけではなく、走る鍛錬が必要。1030程の角度の緩い坂の道を走ったりする。馬術用の馬も加速、減速、停止、ジャンプ等鍛錬する。軍馬も軍馬用の鍛錬が必要。軍馬用の鍛錬を子馬の頃から行っているわけではない農耕馬、駄馬型の生き残りの在来馬が、平安~室町までの武士が乗っていた軍馬と同じ能力がないのは当たり前。ここが重要。少し考えれば、気づく事ではある。

 在来馬、特に南部馬の駄馬型北海道和種に子馬の頃から軍馬としての鍛錬をし、大豆、スキムミルク、蕎麦、胡麻等高たんぱく、高カルシウム等栄養価の高い餌を中心に明日葉、クマザサ、ゴボウ等を与えた場合、体形が軍馬型に変異するかもしれない。1世代では無理で、早くても3世代目で変わるかもしれない。

 軍馬型の鍛錬とは何かを示す。仔馬の頃からとにかく走らせる。

 1 低速で1時間走る。

 2 全速力で限界まで走る。13分休む。これを繰り返し、1時間。

 3 1030メートルを全速力で走り、停止。13分休み。これの繰り返しを1時間。

 脚の下の方に300500gの重りを付ける。この三つを基本に頻繁に行う。11時間毎日か、午前1時間、午後1時間で次の日は休みか、134時間で2日連続で休み。子馬だから負担が強いと、潰れてしまう危険があると思う。さらに鍛錬法を揃える。300500メートルを中速で走る。低速で1時間走り、3分休憩、低速で1時間走る。数十メートル走り、停止、方向転換し、開始地点に戻り停止の反復前後移動。棒を2~6メートル間隔で数十本立て、その間を抜けて進む。走ってジャンプ。坂道を上がる、下る。

 成長したら、人を乗せる。最終的には100キロを乗せて走る。鎧を着た武士ならば、軽くて90~重ければ120キロぐらいあったのではないか。身長にもよるが、鎧なしで、40キロも筋肉が付いていた人はいないのではないか。平均的な170cmだったら、100キロは筋肉付け過ぎで、太さと重さで、動きにくくなり、重心が崩れやすくなり、敏捷性と速度型瞬発力が落ちる。この身長ならば、80キロ前後、重くても85キロで充分。

 重要なのが、成長していない子馬の頃から、頻繁に走らせる事。成長した馬は諦める。仔馬の頃から頻繁に走らせることで、走りやすい形に成長するのではないか。人の競技が参考。走り高跳びは人種に関係なく、身長が高く、腕脚が長く、骨格が前後に薄く、左右に細い。新体操は腕脚が長く、骨格が細い体形。水泳、特に女は骨格は良い方で胸囲はあるが、ペタンコ、ペチャパイで、ユッサ、ユッサと揺れるデカメロンはいない。体操は身長が低く、腕脚の長さは普通で、男は骨格が少し良い。やっている競技、頻繁に行う動き、普通の人がやらない動き、特殊な環境に居る事で体形がそれに相応しいように変化し成長した。

 これで、顔がでかい、首と胴体が太い、足短い、体高低い酷い、体形した在来馬がどう変化するか。北海道和種ならば、軍馬型南部馬と同じ体高、体形に変化するか。この在来馬は体型を踏まえると、顔がでかい、首と胴体が太い、脚が短い、体高が135cm以下を軍馬不採用、駄馬決定にしたように考えられる。それ故、変わらないかもしれない。だが、しぶとく、数十年、数百年、軍馬鍛錬を継続する事で、数十代後、軍馬型が突然変異体としてうまれるかもしれない。元々同じ南部馬でも駄馬型と軍馬型がいたから、再び軍馬型が変異種として出ないとは言えないのではないか。これは長期間かかり、資金がいる。個人で実現できることではない。

 ≪ 間違い、狂い、勘違いを揃える。≫

 1 近代に生まれ、競走馬に特化した軍馬に使えないサラブレッドを馬の正統だと思い込む。サラブレッドを基準にする。

 2 現在、生き残っている、顔がでかく、首と胴体が太く、脚が短く、体高が130cm前後のずんぐりした酷い体形の在来馬を基準にする。

 この12が間違いの大元。この1、2で終わると、3以後に繋がる。この12を大前提にし、強引に現実を歪める。312へと繋がる。

 私は競走馬サラブレッドを嫌い、日本の歴史との当時の絵も掲載された、大学受験の日本史を遥かに超えた本を読み、平安~室町の騎乗、騎射、騎兵の絵を見ていたので、在来馬で騎兵不可能を10代半ば頃から否定していた。異民族の他の馬を見ていて、体高はともかく、ペルシュロン等の重種に在来馬の体型が似ているので、駄馬ではないかと思っていた。種が豊富なヨーロッパの馬を大量に見ていると、軍馬、重種、競走馬の体形の違いに気づく。平安~室町の武士が乗る馬の絵はヨーロッパの軍馬に体形が近いと気付いた。これも馬について、時間をかけ、色々調べるないとわからない。

 私は事実8までを踏まえ、この12を否定し、考えを進めた。

 3 明治に全軍馬型在来馬を絶滅に追い込み、軍馬をヨーロッパ馬に入れ替えたを無視。

 4 武士の始まり。武士は重装弓騎兵。武士の鎧、刀の変化。これらを無視。

 5 現在の駄馬型体形で軍馬鍛錬していない在来馬に武士が乗っていたと決めつける。

 6 軍馬、農耕馬、駄馬の体形の違いを無視。

 7 平安から室町の馬の絵を無視。

 8 体高140cm台、150cm台の南部馬の記録が少ないながらもあるが、無視。

 9 騎射3物、流鏑馬、笠懸、犬追物を無視。

 10 騎兵、騎馬隊が確実に存在したのを無視。

 11 現在の在来馬は駄馬の系統で、軍馬として育成されていないを無視。

 12 現在の酷い体形をした在来馬は軍馬ではなく、農耕馬、駄馬の子孫を無視。

 12個を記すと、長い!長文だから読まない!100文字以内でないと読まない!と意味不明な文句を言うのがいる。脳の容量、複雑な思考ができない、文字数が多いと何が何だか分からなくなる。そんな連中がいる。この連中は複雑な問題、対立を解決する力はなく、自分の好き嫌いで短絡的に決める危険人物。その連中に合わせるわけではないが、文字数を削ると、

 過去と現在を同じと勘違い。

 現在を基準に過去を決めつける。

 個人の規準、知識、印象、感覚で決めつける。個人規準。自分基準。

 この三つでよいか。

 事実を知り、分析、洞察、推理、因果性、整合性、相関性、随伴性を揃えれば、馬鹿丸出しの間違いをしなくて済んだ。歴史ネタに書き込む人であれば、歴史に苦手意識はないだろう。だが、事実6までを踏まえ、考えを進め、答えを導き出せない。鹿を馬と言い張る現実を無視、自分の印象、主観で歪めるしか馬。推理、分析する力が低い低知能。これらを示す。

 この在来馬で騎兵無理妄想だけで終わらない。筋肉増強剤を使って、身体能力が高い現実を無視し、黒人は先天的に身体能力が高い、力が強い、瞬発力が高い。しかし、日本人、黄色人種は身体能力が低い、力が弱い、瞬発力が低い、筋肉が付きにくいもある。いまだにこれがやめられない、止めない。これを書いているのは2023717日だが、ダイアモンドリーグだかの陸上競技110メートルハードルで筋肉増強剤を使って身体能力、瞬発力が高い黒人を蹴散らし、金メダルを取った日本人。100メートルでは9,9秒すら出しにくくなった黒人共。リオデジャネイロオリンピック前年から薬物使用に急に厳しくなってから、黒人共の圧倒的身体能力、瞬発力が消えてしまった現実が見えないしか馬。リオデジャネイロオリンピックから何年たっている。

 妄想。事実ではない事を主観的に確信し、訂正が施せない。妄想に蝕まれやすい愚奔人共。さらに続ける。

 原爆、空襲で日本人を殺した戦犯アメ滓が侵入しているが、日本は守られている、侵入異民族戦犯アメカスが日本を守る。

 右翼悪。民族主義悪。

 親英米自由主義、バーク主義、国家主義保守主義国家主義、国際共産主義民族主義

 主に白人が良く見え、好印象になる親白人。

 民族を踏まえながら、異民族を外国人と言い張り、帰化攻撃日本国籍異民族を日本国民ではなく、日本人と言い張る。

 外国人と言い、国家を意識するが、中華民国中華民国民、民族はシナ人を台湾人と言い張る。台湾人なる民族、台湾なる国家、台湾国籍は存在しない。

 他にもあるが、現在の規準、現在の自分の主観に蝕まれやすい愚奔人。

 こんな自分、今、主観に束縛されやすい民族に個人を超え、集団の存続、繁栄、独立、利益を追求する議会制民主主義は不可能。選挙を行い、議会制民主主義で、自由で?法治で?一向に良い方向に進まず、むしろ劣化、弱体化、貧困化、愚民化、衆愚化、移民国家化が進行しているではないか。山上の襲撃後、自由移民党は消滅しているべきだが、消滅していない。現在のすぐに個人の主観に束縛される愚奔人共に議会制民主主義は猿の社会に議会制民主主義を採用させているのと同じ。自分の好き嫌い、印象、感覚、力関係、上下関係で行動を決定する馬鹿、低知能、底辺、ニダ流に踊らされた馬鹿女、チンピラ、異常者、アスペルガー精神疾患がある者達に個人を超え、政治的合理性、民主的合理性に基づく決定、統治を深く考えるようにと求めているようなもの。いい加減、議会制民主主義には絶望する時と気づくべき。

 在来馬騎兵不可能と言い張る、で現在の戦後日本人、愚奔人の酷さを炙り出し、絶望してもらいたいと思う。低知能の人には何が何だかわからないかもしれない。