みぎに つきすすむ 。右翼の経典 右突経( みぎに・右突き)

●右翼民族主義の整合性 一貫性 因果性を揃え右翼を貫く●民族の独立生存を最上位にし全異民族の侵蝕阻止、侵入異民族排斥●帰化侵入を行う日本国籍異民族排斥●国際世界市民主義の左翼・保守 国家主義 人種差別主義 伝統主義 皇室中心主義 皇道主義 国粋主義 平和主義を打倒●親米親朝鮮シナ親白人親黒人等異民族に親しむ 受け入れる左翼を粛清

【 九州南部の神武天皇が大和を選んだ理由。 】

≪ 根拠地建設の理。 ≫

 南九州で生まれ、育った神武天皇は長距離を移動し、大和を根拠地に拘った。一度西から移動して、長脛彦と対決したが、勝てない。紀伊南部の海を通り、伊勢に上陸し、大和を目指し、再び長脛彦と対決、勝利し、大和に根拠地を建設した。日本列島のほぼ中間地点、伊勢、尾張、美濃、近江でも良いではないか。大和でなければならない理由があるのではないか。

 原始、古代は移動に時間がかかるどころか、最悪の場合、移動に由る重傷を負うか、病気、怪我で死ぬか、食料や水が底をつき餓死、行き倒れるか、現地住民に襲われ殺される危険がある。当時、食料は豊富とは限らず、自分達で精いっぱい、余所者に食料、水を分けるとは限らない。その中で神武天皇は南九州から関西へと移動を開始、その途中で兄が死ぬ。過酷な移動をしてまで日向から大和に入り、拠点を気づくのは統治者の立場に立っていたからと考えられる。紀元前660年頃とされる神武天皇の時はまだ乗馬を知らない。この時の高速の移動は船となる。

 拠点というか重要拠点、首都を築く土地には意味がある。多くは領域の中間地点が適切。領域の東西南北に最も近い土地。さらに災害が少なく、水や食料が確保でき、外部、内部の敵から守りやすい土地が良い。ネトウヨが目の敵にするニダ半島であれば、38度線付近。南鮮がソウルから南に首都を移動しないのは北鮮も自領域北韓だと設定し、中世から朝鮮国家の首都でもあるので、ニダ半島の正統な首都があるとし、ニダの正統性を示す為もあるのだろう。

 シナは北側だろ、何いっているのか、馬鹿ウヨ、と言われるかもしれないので示す。シナの歴史を読むとわかるのだが、シナ南部に有力な異民族や、勢力はほぼない。南からの脅威は無視して良い。しかし、北は強力な異民族、北方遊牧民が住み、しばしば、長城を超え、侵入。最悪の場合、占領、建国される。移動速度が早い、長距離の移動に慣れている遊牧民の侵入を早く知り、被害が拡大する前に、深く侵入される前に対応を決定しなければならない。シナ人にとっての統治には北方民族対応は絶対に避けられない。むしろ、これを踏まえ、政治、軍事、経済、文化を揃える必要がある。北方遊牧民族の侵入に対抗する為には黄河流域に拠点を築くのが適切となる。華中でも遠い、華南はあり得ない。寒さが厳しく、乾燥した華北黄河流域のどこかに首都を築くのが適切。

 ロシアはモスクワで西に偏る。元々モスクワはウラル諸族が住んでいたらしい。キエフ等現在のウクライナ西北部が中心だったが、北上しモスクワに拠点を築く。ロシアは中世終わりごろまで、モンゴル、トルコ勢力に従属していた。この野蛮、尚武、強兵の黄色人種に長く勝てないと思い込み、刃向かわなかった。当時のロシアは、現在の戦後親米滓左奔に近い。または皇帝の臣下、朝鮮国家の王に近い。土地が良かったからか、モスクワを拠点とする勢力が他の貴族を圧倒。モンゴルよりもポーランドオーストリアや神聖ローマのドイツ人、スウェーデンに対抗する方向に進む。軍事革命で中世終わりにはモンゴル、トルコ人は脅威ではなくなる。シベリアや中央アジアに脅威はなく、ヨーロッパの脅威に対抗する必要があり、モスクワやサンクトペテルブルクが拠点となる。意外だが、ポーランドは中世までは弱小ではなかった。体高150cm程のアラブ馬に乗る、強敵、多数と戦えるフサリアという強力な騎馬隊がいた。

 マスゴミ、自由移民党等が強引に変えるキーウではない。キエフ。意地でもキーウと言わない。キーウとするのは踊らされた愚民、精神の独立・自由の破壊を意味する。キエフをキーウと言い張るのは鹿を馬と言い張る本当の馬鹿ども。これが正しいならば、これと同じように“正しく”言い換えよう。外国人を異民族。日本国籍異民族、民族浄化の雑種を日本人ではなく日本国民異民族。日本国籍で、日本人ではなく、日本国民。太平洋戦争を聖戦、大東亜戦争朝鮮出兵を朝鮮征伐。ハーフではなく、雑種。これらは左翼基準ではない右翼基準なので言い換えるわけはない。

 イギリスのロンドンも南に寄る。北には有力な異民族、勢力はほぼない。一時期、デーン人等が侵入し、拠点を築くが、それよりも南、大陸側のフランス、オランダ、ドイツ、スペイン等の方が脅威。これらの動きを早く知り、対処する必要がある。ブリテン島ならば、南東寄りに拠点を気づくのが適切となる。

 我らの永遠の仇アメカス。ワシントンは東北部。建国前から、ヨーロッパの影響を受け、それに対処する必要がある。西には有力な敵対勢力はない。近代、日本、中共ベトナムの対応する必要があるが、ヨーロッパに比べれば、重要度は低い。それで入植と言うか侵蝕開始から古く都市がある東北部に拠点を築き、首都移転する必要がない。

 視野を広げ、外部、領域外を踏まえると、有力な脅威を与える異民族に対処する為や、敵視する異民族の為に自領域の中央周辺にならず、偏る場合もある。

ここでまとめる。

 ▼ 領域の中間地点。

 ▼ 気候。寒暖。雨雪。

 ▼ 水、食料の確保。

 ▼ 災害。地震、強風、大雨、洪水等災害が少ないか、これらの災害に強い土地。

 ▼ 脅威。有力な危険な外部勢力、異民族。

 簡単に言うならば、自集団の▼ 生存、存続、独立、勝利、繁栄への道を切り拓ける土地。

 または▼ 自集団の領域を統治しやすい土地。

≪ 大和・奈良を選ぶ理。 ≫

 日本列島を踏まえた場合、関西は少し西に寄る。中部南部、美濃、尾張、伊勢、三河もいいのではないかと思ったが、それは間違いで、やはり関西、特に大和が正しいと気付く。それは日本列島を踏まえ、当時の日本領を踏まえないから間違えた。それを示す。

 神武天皇以後の古代天皇の時代、当時日本人が住んでいた、日本領だったはずの“現在朝鮮半島”に頻繁に行き来する記録がある。これはニダ半島だが、数万規模の軍を動員し遠征したり、百済防衛の為に軍を派遣したり、百済貴族になった日本貴族や半島日本人が行き来したりした。百済軍はほぼ関東から派遣された日本軍説もあったような。古代、数万人を動員し、海を超え、数万規模を派兵できる軍事力、技術力、経済力があったとの事実。百済・半島日本人や高句麗満州人や新羅朝鮮人使節が瀬戸内海を通り、大阪の港につき、奈良へと向かう。大阪にある仁徳天皇の巨大古墳は奈良に向かう途中に半島勢力の使者に見せる為もあったという。

 河内、和泉、摂津が重要拠点、根拠地だと瀬戸内海に近く、船で侵入してきた外敵が上陸し、すぐに首都に至り、攻撃される危険がある。しかし、そこからさらに奥地ともいえる、ほぼ内陸、海なし県奈良ならば、距離があり、瀬戸内海近くよりも上陸されてから時間的に余裕があり、奈良に侵入前に防備を整え、迎え撃ち始末できる。

 藪蛇となった室町時代の海賊。室町藪蛇海賊、藪蛇海賊との言葉はどうだろうか。藪をつつく動きが元寇倭寇とされるが、倭はシナ鮮、シナを支配したモンゴル、満州が使った蔑称なので絶対に極右としては使わない。蔑称を知らずに使う間抜け共は天誅。典型的間抜けな戦後イルボン人・愚奔人。この海賊は主に朝鮮半島沿岸部やシナ沿岸部を荒らしまわる。内陸に進む場合もあるにはあったが、これは基本、元寇の復讐で、略奪で、襲撃なので、長居は無用、とっとと引き上げる。中には襲撃を止め、朝鮮南部に大量に定住し、現地民族の女と結婚し、農民化したのもいるという。

 ヨーロッパのバイキングも沿岸部を中心に荒らし回る。定着する場合、沿岸部に拠点を築き、内部へと進む。中世の大航海時代というが、現実は大侵略時代の極悪スペイン、ポルトガル、オランダ、イギリスもまずは沿岸部に拠点、都市を築き、それから内陸へと向かう。沿岸部に首都を築くのは危険でもある。これを踏まえると関西の中でも大和か山城が良い。近江は少し瀬戸内海から遠いので不適。山城よりならば良い。

 当時の日本領ではなく、日本列島を踏まえると関西、大和よりも中部の伊勢、尾張、美濃、三河が最適とも思える。関西だが近江も良い。距離や気候を踏まえると良い。この地域を拠点にした織田氏、徳川氏が外部勢力に潰されず、拡大、大勢力化した事から、この地域は侵入する敵から守りにくいとは言えないとも思う。しかし、ここでは不適、朝鮮半島がやや遠くなる。

 神武天皇が関西、大和を選んだのは東日本、朝鮮半島を踏まえてではないか。特に鮮半島への渡海を踏まえてのことではないか。東日本と、神武天皇と同じ民族が住み、朝鮮人が住んでいない当時の朝鮮半島。日本列島、朝鮮半島を含め、当時の日本領とした場合、統治、距離、位置、移動、防衛を踏まえた場合、大和、次に山城が最適。特に注目すべきは鮮半島へ渡海。奈良から陸路を通り、大阪の港に至り、そこから船で瀬戸内を通り、鮮半島へ直接渡る。船を建造する力があれば、中国地方を陸路で進むよりも鮮半島への移動は負担が少ないし、大量に物資、人、兵を渡海させられる。東日本、鮮半島への移動を踏まえた素晴らしい土地に根拠地建設した。

 日本“列島”と日本“領”は別のもの。高知能の人は勘違いしないだろうが、低知能は勘違いするかもしれない。勘違いしないように。昭和初期の日本領は朝鮮半島、台湾、南樺太、千島列島も含む。紀元前4万年や日本列島到達以前だと、中央アジア満州黄河流域、華中、シベリア南部、南モンゴル等が日本領だったと想像。これは国家を超える民族領域、日本人が住む、多く住む、支配、統治する土地を日本領とする。民族領域と国家領域は別のもの。民族領域がやがて国家領域へと繋がる。それで異民族が侵入し、住むのは絶対に阻止する正当性がある。反対に外国人と言い、やたら侵入異民族に好意的で、侵入させたがるマスゴミ共左翼。ここを頭に叩き込んでほしい。地球全土が国家で覆い尽くされ、国家中心は白人の真似で、近代に入ってからで、人にとっては革新的な事。それと現在の民族分布と古代、中世の民族分布も違いがある場合もある。古代半島の日本人が日本に来た可能性を考えず、現在を主にし、古代半島には朝鮮人だけが住んでいたと妄想、朝鮮人が来たと言い張る鹿馬。

 神武天皇が移動を開始した当時、現在の朝鮮半島には朝鮮人の侵入、満州人の南下はなく、日本列島に移動しなかった日本人の居残り集団が住んでいたはず。列島よりも人口が少なく、生産力が低かった。有力な勢力、脅威は存在せず、それに早く対応する必要もなかった。侵入する異民族の脅威、縄張り争いに早く対応する必要があれば、やや西より、安芸、播磨、備後、備中の内陸側を選んでいたかもしれない。長門は不適。ほとんど知られていないが、長門元寇時、敵が上陸し、迎え撃ち、戦闘、1か月程で元は撤退した。

 現在島根は人口が少ない。しかし、古代、弥生時代には大規模な拠点があったとされる。これは朝鮮半島と島根を拠点とする勢力の根拠地だったのではないか。シベリアか、朝鮮人が言うようにパミール高原かは不明だが、そこから侵入する朝鮮人の移民を住まわせ、下層民として使ったが、やがて人口を増やし、勢力拡大、上流階級に侵蝕し、統治に関わるようになり、素戔嗚の子孫である現地の領主は主導権、土地を奪われ、海を超えた同族の土地に逃げ、島根に拠点を築き、取り戻そうと想像した。

 神武天皇は元々南九州に住む。海路で関西西部に至り、さらに海路で紀伊南部を通り、関西寄りの中部地方伊勢に上陸した。ここで目立つのは海路で沿岸部を通った事。これを踏まえると、神武天皇と言うか、南九州の住民達は島から島に移動し、沖縄、八重山、台湾に行き来し、知っていた可能性もあるのではないか。

 南、西寄りの南九州に住む神武天皇が根拠地建設に大和・奈良を選んだのは東日本だけでなく、当時朝鮮人が一人も住んでおらず、伊弉諾の子孫が住んでいた朝鮮半島を日本領と意識していたからではないかと考えてしまった。南九州から移動し、奈良を選んだことで、青森までの東日本だけでなく、さらに北の北海道、樺太、千島や、朝鮮半島や、南の沖縄、台湾を日本領と認識していた可能性もある。自民族嫌い、異民族大好き、異民族中心の左翼は馬鹿丸出しと、ひたすら否定するだろうが、あり得る。奈良を選んだ神武天皇は高知能。当時最高の知能が備わるずば抜けた人物。西、南側の朝鮮半島、九州、沖縄と東、北側の関東、東北、北海道、樺太、千島を日本領と意識し、踏まえると、私は大和か山城を選ぶ。この地は特に特に九州、任那半島に行きやすい。中部や関東南部が拠点だとこの地への移動のし易さの点で、大和、山城に劣る。

 朝鮮半島伊弉諾の子孫が住む土地ではく、異民族朝鮮人が住む土地に覆ると、東寄りの南関東に根拠地建設でも問題ない。九州、沖縄が少し、遠くなりはするが問題ない。元寇時、東日本から動員した主力6万が敵侵入前に到着せず、遅かったから問題あるだろうと言うのもいるだろう。

 平安初期までは新羅敵視を継承していたが、平安中期になると朝鮮半島は眼中から消え、下剋上、一所懸命、奪われたら奪い返す、奪われる前に奪う殺伐とした平安時代に突入した。軟弱な平安時代は妄想で、自らの力で土地を守り、敵と戦う重装弓騎兵、武士が自然発生した。満州人の小規模の襲撃はあったが、日本に衝撃を与える程ではなかった。満州人、シナ人、朝鮮人等大陸勢力はほぼ、朝鮮半島で終わり、海を越えて、日本に遠征はモンゴル帝国のみ。小中華朝鮮人の意識は北や西の満州、シナに向く。この海を越えて、軍を派遣、襲撃するのは歴史的にほぼ日本人。大陸に住む遊牧民が頂点に立つモンゴル帝国は非常に珍しく、異質、異端。大陸の遊牧民だからこそ、シナ人、朝鮮人がなんとなく抱く感覚を知らず、この海、巨大な水堀の防御力に気づかなかったか。それ故、伊弉諾の子孫が住む朝鮮半島防衛が消滅すると、眼中から消えた。この海は日本人にとって、強力な水堀。強力な防御力が備わる。朝鮮半島に拠点がある異民族にとっては、強力な水堀とは言えない。

 神武天皇はこの領域を統治する意志を抱いていた。国家、国民、国籍、日本人らしさ、日本の心、伝統文化を超える原始、神話、民族で始まる日本史上、もっとも重要な天皇神武天皇は日本領を統治する意志を抱き、まずは第一段階として、当時の世界、‟日本領„の中心大和に移動し、根拠地建設。日本を統治するは神武天皇の遺志でもある。

≪ 九州南部に根拠地がある理。 ≫

 九州南部東よりを中心とすると、日本列島だけでなく、朝鮮半島、台湾、シナ東部を領域として意識していた、とふと想像した。神武天皇が大和を選んだ理由を導き出すと、九州南東部に神武天皇が住んでいた理由も導き出せる。古代、紀元前660年以前に、九州南部、正確に言うと宮崎南部、鹿児島北東部に根拠地がある理は何か。華北、華中、華南の東部を伊弉諾の子孫が住む領域と意識した場合、九州北部に根拠地となるか。九州南東部から沖縄、台湾、華南、華中、華北と海路を通るでも行きやすいか。この場合、九州北部か、九州南部のどちらかが、根拠地となる。

 シナ人が黄河下流域に侵入する前にこの地に住んでいたとされる東夷、来夷との民族はこの地に定住した伊弉諾の子孫、日本人ではないか。この民族は民族系統がよくわからない。伊弉諾の子孫が最も古い黄色人種の生き残りである以上、紀元前のシナ人、ベトナム人、タイ人等の新しく発生した南方黄色人種が大陸で拡散する前に、黄河下流域、華中、華南、台湾等に伊弉諾の子孫が住んでいた可能性がある。紀元前、紀元前後、シナ人等南方黄色人種侵入前のユーラシア大陸東部域に住んでいたのは最古の黄色人種である日本人だろう。黄河下流域から華南までの最古のアジア文化は最古の黄色人種の生き残りである日本人の文化の可能性が高い。

 分離してから1万年以上たつので、その場合、特に文化はその地に合わせ改良されて、古代の日本列島の日本文化とは似ても似つかない異質なものに変化しているはず。農耕に向かない土地ではモンゴル人の様に遊牧民化した日本人もいただろう。羊を頻繁に食べ、乳製品が主食の遊牧日本人。日本語も一部似ているが、他は全く違うように変化しているかもしれない。日本列島の古代日本文化の方が、列島に合わせ変化した結果かもしれない。紀元前の日本文化としては、日本列島の日本文化は異質、異端だったかもしれない。

 日本人と別系統だが、同じく起源が古いモンゴル人、トルコ人。この民族はユーラシア中央部、北部を中心に広がる。中央アジアから東に移動した日本人の後にモンゴル高原から満州に入ったとする。そうすると、朝鮮半島から華北東部、華中東部、華南東部が分断され通れなくなった。北からの道が閉ざされた。それで、南回り、南九州から沖縄、台湾、華南、華中、華北と繋げたのもあり得るか。

 古代紀伊の住民は房総半島に移住した。房総半島は紀伊の痕跡がある。神武天皇の東征と同じく、九州南部東側から紀伊に行くと、そこから房総半島へと繋がる。九州南部は関東にも海路で繋がる。伊勢神宮よりも古い数少ない神宮、鹿島神宮鹿島神宮の起源は神武天皇即位の年と同じ。鹿島神宮は古代東北への遠征、移動の拠点だったと伝えられている。北へ繋がり、西に繋がる、日本を東、西、北に繋げる重要拠点だった鹿島。

 鉄道やバスで、東京から東北に行った事がある。茨木北部から、標高が少し高くなる。磐城、磐代と呼ばれていた福島のいわき市周辺は岩山が多かった。山、トンネル、ジャングルのような森林があり、陸路は険しい。福島は東北と関東を遮断する地形。古代ならば、独立性を保ちやすい。歩き、騎馬では大変ではないかと思い、景色を見ていた。古代は全く人が住んでおらず、密林が広がり、沿岸、海路を通った方が移動しやすかったはず。

 平安頃になると栃木からの東北へに繋がる道を使うようになった。鉄器使用後300600年かけて、この地域の密林を切り拓き、通りやすくなったのだろうか。大軍を動員した頼朝の東北遠征もこの地域を通り、東北に進んだ。

 鹿島神宮の氏族は藤原というか、中臣ではないともされ、中臣以前は多氏で、中臣が乗っ取ったいう説がある。多氏は神武天皇の息子で皇別最古、第一の家系。祖神は天照、高皇産霊で、武御雷ではない。中臣の祖神、天児屋根は武御雷の後裔とも言うので武御雷は中臣の祖神だと言う説もある。

 グーグルで千葉北部、茨城南部を見ていた時、船橋に意富比神社と言うのがあった。これはなんと読むのか気になり調べるとおほひだという。祭神は天照。最古の皇別多氏は意富と書く場合もあると言う。多氏は文字の資料が全くない飛鳥以前に関東に定住した説がある。祭神は天照でも、意富比神社は非常に稀な神社。古墳時代以前に多氏が関東、特に下総、船橋周辺に移住した痕跡か。

 船橋神明神社が多い。その西、市川は珍しい事に、伊弉諾の先代、神代七代の面足が祭神の胡録神社が多い。胡録神社は東京東部にも多い。北の松戸との境界線近くには伊弉諾神社がある。鹿島から北に行くと、鹿島神社が多い。海に近いいわき市に立鉾鹿島神社がある。ここは東北遠征に関連した神社。鉄道だと、ここから北は密林を切り拓き、岩山の穴をあけ、通した道が頻出する。

 中臣氏は山城が発祥とも言う。しかし、私は元々鹿島を拠点としていた関東と言うか、東日本最大の有力氏族で、鹿島から東北、西日本に繋がり、神武天皇即位の時に神武天皇の元で統合し、それに伴い、中臣本家、または有力な分家が山城に移住した、とも想像した。中臣の発祥地は山城説、大和説、常陸説があるのは、神武天皇即位から古墳時代までに鹿島から山城、大和に一部が移住したからではないか。古くから最大で、有力氏族ならば、分家も多いだろうし、本家や分家が移住しても、元の領土には残れる。中臣の祖神ともされる武御雷神武天皇の祖先瓊瓊杵の元で戦い、神武天皇の戦いを助けた重要な神。瓊瓊杵、神武天皇の皇室と、武御雷の中臣氏の関係を読み取れる記述がある。

 その他、南九州に住んでいたが、神武東征とともに、関西に移動し、大和に根拠地を築いた皇室から少し離れ、北の山城に根拠地を築いたも考えられる。古くから山城で、神武天皇が大和に入り、そのもとで統合されたも考えられる。

 南九州に神武天皇が住んでいた理由は沖縄、朝鮮半島黄河下流域、華中東部、華南東部、台湾に伊弉諾の子孫、日本人が住み、日本領として意識していたからではないか。しかし、神武天皇13代前の先代から、シナ人、ベトナム人、タイ人、オーストロネシア人の侵入で、黄河下流域、華中東部、華南東部に住む伊弉諾の子孫が消え、民族的繋がりが消え、日本領だったとの意識が薄れ、現在の日本人が住む領域が強く意識され、根拠地を変える必要が出た。南九州東部に根拠地がある理由が消滅した。この時代はあっという間に民族構成が覆る。それを伝え続けるに失敗する。奪われた土地が忘れ去られる。寿命が短く、文字で残せないので、引き継げない事が多くなる。

 神武天皇時代か、その先代の時点で、沖縄、台湾、華南東部、華中東部、黄河下流域に伊弉諾の子孫が住んでいたが、領域として意識しなくなっただけとも考えられる。気軽に行き来できる場所ではないから、行き来が負担になり、行き来しなくなり、記憶が薄れたとも考えられる。溺れ死ぬ危険が常に付きまとい、生きて帰ってこれない、溺れ死ぬが頻発すると、無理して渡る、気軽に渡る気が消え、行くのを諦めると思う。行き来する回数は少なくなり、やがていかなくなるもあり得る。

 シナ人、ベトナム人クメール人、タイ人、オーストロネシア人等南方黄色人種は起源が新しく、拡散したのも、起源が古い北方黄色人種よりも遥か後。発祥の地は雲南、四川、貴州あたりか。シナ人のみ北上し、他は東や南に移動。では、それ以前にその北や東や南に住んでいた民族はなにか。北、黄河流域は日本人かモンゴル人。東、華中、華南は日本人。南、東南アジアはオーストラロイド。

 ① 紀元前660年以前。

 ② 中央アジアを東に移動した最古の黄色人種伊弉諾の子孫。ユーラシア大陸東部、東アジアに早く到達し、広がる。

 ③ 九州南東部の南寄りに神武天皇は住んでいた。

 ④ タイ人、ベトナム人、オーストロネシア人、シナ人は南方黄色人種で、北方黄色人種よりも発生が遅い。発祥の地は四川、雲南、貴州周辺。そこから北、東、南に移動。

 ⑤ 神武天皇は海路を通り、大阪に上陸。さらに紀伊南部を通り、伊勢に上陸。

 ⑥ シナ人侵入以前に黄河下流域に住む東夷、来夷の民族系統不明。

 ⑦ 古代、紀伊の住民は房総半島に移住した。

 ⑧ 起源は神武天皇即位の年。東北遠征の拠点だったと言い伝えが残る。数少ない神宮、鹿島神宮

 

≪ 統治しやすい土地に移動する原因。 ≫

 神武天皇豊葦原中国を統治する為に移動と記述がある。伊弉諾の国産みにより生み出した土地を意識していただけか。統治と言うか、伊弉諾の子孫、民族を統合しなければならない必要があったからか。それは記述されていない。しかし、何かあるはず。この時代は人、物の移動が遅く、情報の伝達も遅い。意識している空間が狭い。人口も少なく、集落は独立性が高かったのではないか。神武天皇の一族、皇族だが、関西、関東、朝鮮半島の事を知っていて、そこを自領域と意識していた。日本領の統治者階級、皇族、君主だったから日本領を統治が当たり前のように意識していた結果、大和への移動へと進んだ。高千穂は南により過ぎ、関東、東北が遠すぎる。反対に関西、中国、沖縄、鮮半島には近い。当時の日本領である日本列島、鮮半島を統治する為に当時の日本領の東西南北に近い大和に移動だとは思う。反対に言うと、高千穂に住む、拠点があるのは理がないとのことでもある。ここでは統治し辛いと意識する何か現象があった。統治しやすい、または統合しやすい土地への移動を意識した要因は何か。いろいろ想像する。あり得る事を考えてみる。まず神武天皇の東征前と東征終了を踏まえ、繋げる。

 ▼ 南九州に住む。

 ▼ 統治する為に中州、世界の中心へ向かう。

 ▼ 海路で移動。南九州から北九州、瀬戸内海を通り、関西に至るが、和歌山の沿岸部を回り、三重南部に上陸し、奈良に向かう。

 ▼ 関西に上陸するまでは手強い敵、戦闘はほぼなし。現地民は敵対せず。

 ▼ 3人の兄は全て死ぬ。

 ▼ 大和に有力な手強い敵がいても諦めなかった。

 ▼ 大和に拠点建設。首都となる。

 これ等に繋がる事を考えてみる。

 ▼ 中州、世界の中心は当時の日本領の中心との事で、統治しやすい土地は関西・大和と見なしていた。日本列島を踏まえた場合、ここはやや西よりで美濃、尾張、三重が中心。東西の勢力が衝突した承久の乱関ケ原もこの地域。しかし、朝鮮半島を含めると関西が中心となる。

 ▼ 騎馬採用前で、長門から東へ陸路を通るよりも、船で瀬戸内海を通った方が移動しやすいと知っていた。

 ▼ 北九州、中国の住民と言うか、現地の有力者は侵入者・よそ者として神武天皇を敵視、攻撃せず、受け入れ、協力している。その地の住民は神武天皇の事を知っていると思われる。皇室の元で統合されていたと思われる。

 ▼ 関西と言うか大和の長脛彦らが激しく抵抗、攻撃する。皇室に敵対的で有力な勢力が関西に居た。これがやがて中国を支配下に入れ、北九州まで進む危険もあると見なしたとも思われる。

 ▼ 三重南部に上陸した。伊勢を知っている。そして、美濃、尾張も知っていたはず。当時の日本領ではなく、日本列島東部まで含めると、伊勢、美濃、尾張が中心だと判断できるはずだが、この地域を宮殿建設地に選ばず、素通りし、大和に向かう。朝鮮半島を含めた世界・日本領を意識していたと思われる。この世界とは神武天皇と同じ民族、伊弉諾の子孫が住む領域。

 ▼ これは国際共産主義とほぼ同じ戦時宣伝、八紘一宇、四海同胞をいまだに尊ぶ馬鹿ウヨ、低知能保守に対して書く。

 統治する為に中州、世界の中心へ向かうでユーラシア中央部、中央アジア、イランに進まず、大和に入った神武天皇。この八紘一宇は異民族が含まれていない。自民族と、日本列島東部と朝鮮半島を踏まえ、八紘一宇。自民族、当時の日本領を統合であり、異民族は関係ないと示す。左翼に等しい馬鹿ウヨが執着する異民族を含めての八紘一宇ならば、当然、中央アジアかイランへ進み、宮殿を建設するが、その事実、痕跡はない。この八紘一宇は民族を超え、異民族を統合する左翼基準ではなく、自民族を統合する右翼基準である証。左翼八紘一宇は不整合。馬鹿ウヨ共はろくに神武天皇の記述を読み、痕跡から深く考え、その遺志を探り、答えを導き出そうとしていないのが示される。右翼失格。左翼八紘一宇の狂いを見抜けない低知能。痕跡から探る。推理、分析、洞察。論理で繋げる。これが苦手と言うか、出来ない馬鹿ウヨ、馬鹿保守共。それで左翼、白人、ニダ、シナ、アメカスに勝てない、対抗できない。絶望的。

 さらにこれらから繋がる事を考えてみる。

 ▼ 神武天皇以前、高千穂に住む前は関西、または大和に住んでいた。関西・大和に住めず、一時的に高千穂に住む原因があった。

 高千穂は南九州。関西はそれよりも北側。単純に考えればこの地の違いは寒暖、気温。南九州は関西よりも気温が高い。寒冷化で関西だけでなく、中国等が住み辛くなり、大和から寒冷化の影響が弱い南九州に移動した。しかし、寒冷化が終わり、温暖化、大和の寒さも厳しくないので戻ろうとした。

 紀元前660年以前の地球と言うか、日本周辺の気候は専門家ではないので、細かい、詳しい事は私にはわからない。縄文時代、温暖化、寒冷化があったような気がする。温暖化で関東は水没し、長野に集結した。それで長野には縄文時代の遺跡が多いというのがあったはず。縄文時代後期は寒冷化したらしい。だが、寒冷化にも程度があるだろうから、九州以東が寒すぎて住み辛く、南九州はそれよりも寒冷化が酷くなかったかはわからない。

 寒暖、気温が変われば、植生、動物も変わる。それは主に食料に影響する。気候変動により、今まで通り、獣、魚、植物を確保できず、食料が枯渇した、も考えられる。これは動物の集団が居住地を変え、移動する最も重要な要因。

 ▼ 南九州で食料が確保できず住み辛い。

 当時は人口が少ないので、狩猟、漁労、採集、原始的な農耕を主とし、南九州ならば、山の幸、海の幸に恵まれ、充分確保できるとは思うが、何かあり、食料が確保できなくなり、他に住む土地を探していた。それで大和と繋がるのは不明。大和ではなく、九州北部、中国、四国でもいいはず。食料を確保できれば良いのではなく、中洲、当時の世界の中心で食料確保できる土地でないと日本領統治を踏まえると不適なのだろうから、これは不適。

 ▼ 稲作に適した土地を求めた。

 南九州は蕎麦等雑穀、芋等畑作に適した土地、馬産に適した土地で、稲作には向かない土地だから、稲作しやすい土地を求め、移動を決意。そもそも山の民なので、農業ならば蕎麦等雑穀栽培をしたはずだが、神武天皇の母は海神。海との繋がりがあり、山の民と海の民が融合したのが神武天皇兄弟。神武天皇の先代ウガヤフキアエズの時、沿岸部の低地に降りてきて、稲作をやり始めたのかもしれない。稲作ならば、濃尾平野が良いと思うが、ここを選ばず、大和を選んだので、稲作が目的ではないだろう。だが、当時の気候では、濃尾平野は稲作に向かず、大和の方が向いているので、濃尾平野を素通りしたとも考えられる。

 ▼ 関西に有力な敵対勢力が成立し、拡大するのを日本領の統治者として知り、阻止する必要が出た。

 騎馬採用前で、情報の伝達が遅く、人の移動も遅く、街道も整備されていないだろうから、当時は分離独立しやすい。とはいえ、中洲、世界の中心である大和に拠点を築き統治する為、移動は関係ないような気がする。

 ▼ 朝鮮半島満州人の南下、朝鮮人やシナ人等、異民族の侵入により、一部半島日本人が九州に逃げてきて、南九州にもそれが伝わる。半島侵入異民族と縄張り争いする為にまず日本列島を再統合し、日本東部を含め、大軍を動員、渡海させ半島に遠征。侵入異民族との縄張り争いに突入する下拵え。

 神武天皇の半島遠征の記述はない。しかし、神武天皇以後、崇神天皇に半島の記述が出る。それ以前に素戔嗚が息子とともに新羅に降臨したが、新羅地域を嫌い、出雲に来るとある。素戔嗚の系統は半島日本人が崇める神で、侵入異民族、朝鮮人に乗っ取られ、素戔嗚の子孫は出雲に押し出され、自分を崇める子孫である氏族がいないから新羅を嫌い、その子孫が半島から島根に移動して住んでいるから出雲に来た、を示しているとも考えられる。新羅初期の記録では、日本・日本人から攻撃、襲撃された記述が多い。

 伊弉諾人と言うか、日本人が中央アジアを東に移動した第一波の最古の黄色人種の民族で、氷河期に歩いて渡った民族であれば、朝鮮人より先に今の朝鮮半島に住んでいたのは当然。その後に朝鮮人が半島に侵入した。侵入された民族・日本人。侵入した民族・朝鮮人。この関係を踏まえれば、土地を取り戻す攻撃と考えられる。この朝鮮の記述を踏まえると、朝鮮人は海を超え、日本に攻撃できない。日本人は頻繁に海を超え、新羅地域に攻撃できたとの事で、列島、半島を気軽に船で行き来していたとされる。

 古代の天皇は関東や、中国、北陸、神武天皇移動後の九州等日本各地に遠征、日本統合・統治へと進む。しかし、完全に民族統合・日本列島統合したわけではないが、半島にも遠征する。399年、新羅を攻撃、新羅王を臣下にした。400新羅王都に進撃、短期間占領。404年頃、騎馬採用前に平壌周辺で高句麗満州人の鉄騎に大敗。神武天皇以後の古代の天皇を踏まえるとまず日本列島統合し、それから鮮半島へ遠征と繋がる。九州だけよりも、東日本を含めた方が戦力は強くなる。動員できる兵力も24倍になるはず。遠回りだが、大和に移動し、拠点を築き、関東にあった独立性の高い勢力も従えた方が、武力は強くなる。特に騎馬採用後、軍馬向きの馬が多く、馬産に適した関東や東北は軍事力を強化する。神武天皇は騎馬採用前だから馬産については関係ない。ついでに言うと、神武天皇の息子、庶流多氏は関東に移動、定住するのは早い。資料が少ない古代で、痕跡から探るしかないほど古い。神武天皇の兄稲飯命は死んだとされるが、新羅王の祖になったともいう。

 これはちょっと無理があるかもしれない。だが、外敵、脅威を与える異民族、侵入を試みる異民族と衝突する前に、まずは自民族の統合を意識し、統合するのは理に適う。幕末、東西に分裂したともいえるが、統合。さらに歴史的に分離、独立していた外国だが、同族琉球王国と合併、統合。東アジアの大国、満州人の清、ロシアと対決。民族が統合せず、分離していたら、清、ロシアに敗北していたかもしれない。

 神武天皇の東征は陸路ではなく、海路を通る。当時騎馬は採用されていないから、船を建造できれば、海路の方が速いし、負担は少ない。当時、朝鮮半島朝鮮人の領域との意識があるはずはなく、九州、中国、四国、対馬に渡るように、半島南部にも気軽に渡っていたはず。北九州や中国の沿岸の住民には半島南部に行った人や、半島の日本人の中には北九州に来た人もいたのではないか。神武天皇は半島の事を知っていた可能性はあるのではないか。資料が少なすぎるというか、ないので想像でしかない。関裕二のシナ鮮等異民族優位、日本劣位の本、関の主観でも問題ならば、これも良いのではないか。

 朝鮮半島朝鮮人ではなく、列島に移動しなかった半島の日本勢力とも考えられる。